【私の経歴】
人生の転機となった“2度のオイルショック”と
忘れられない東日本大震災からの復旧・復興<前編>
元JXエネルギー株式会社 取締役 副社長執行役員、JXホールディングス株式会社 取締役 黒﨑猛 氏
人生の転機となった“2度のオイルショック”と
忘れられない東日本大震災からの復旧・復興<前編>
元JXエネルギー株式会社 取締役 副社長執行役員、JXホールディングス株式会社 取締役 黒﨑猛 氏
Contents 01
ジェムコ日本経営とゆかりのある方の半生を紐解く「私の経歴」。今回は、元JXエネルギー株式会社 取締役 副社長執行役員、JXホールディングス株式会社 取締役の黒﨑猛 氏。現在、ジェムコ日本経営の顧問を務めていただいています。前半では自然豊かな岡山で過ごされた幼少期から、石油関連の企業に進まれたきっかけなどを教えていただきます。
黒﨑猛 氏
<略歴>
1977年3月:京都大学大学院工学研究科修士課程修了
1977年4月:日本鉱業株式会社入社
1984年~86年:マサチューセッツ工科大学留学
1990年1月:石油技術部技師長
1998年7月:株式会社ジャパンエナジー 企画部主席技師長
2002年5月:ハーバード・ビジネス・スクール AMP修了
2003年7月:精製部技術担当部長
2007年4月:株式会社ジャパンエナジー 執行役員
2008年4月:執行役員 水島製油所長
2009年4月:常務執行役員 精製部管掌、システム企画部管掌
2010年7月:JX日鉱日石エネルギー株式会社
:取締役 常務執行役員 製造技術本部長
2012年6月:取締役 副社長執行役員 社長補佐
2016年6月:JXエネルギー株式会社 取締役 副社長執行役員
:JXホールディングス株式会社 取締役
2017年4月:JXTGエネルギー株式会社 顧問
2017年6月:JXTGホールディングス株式会社 取締役退任
2018年3月:JXTGエネルギー株式会社 顧問退任
2018年6月:八洲電機株式会社 社外取締役 監査等委員
:ジェムコ日本経営 顧問
現在に至る
Contents 02
生まれは岡山県倉敷市。瀬戸内海に面し、山と海に囲まれた自然豊かな環境で育ちました。幼いころは近所のガキ大将の“第一の子分”とでも言いましょうか(笑)。その後、私がガキ大将になるくらい、外でよく遊ぶ活発な子どもでした。よく、コマ回しのリレーや三角ベースボールをしていた記憶があります。
小学校に入ると、習字やそろばんなど習い事をするようになったのですが、よくさぼっていましたね(笑)。さぼっては小学校のグランドで遊んでいました。また生き物がとにかく好きで、犬、猫、ウサギ、ニワトリ…、家でいろんな動物を飼っていました。小学校では飼育係もしていたので、常にたくさんの生き物と触れ合っていました。
中学ではブラスバンド部、高校ではヨット部に入部。当時は瀬戸大橋ができる前でした。公立高校だったのですが、入学前に岡山国体が開催され、その時に使用した艇の払い下げがあったことでヨット部ができていたんですね。国体予選とか、様々な大会に出場しました。受験生となった高校3年生の時は、少しは勉強をしましたよ(笑)。活用したのは深夜のラジオ講座。いろいろな教科をやっていたのですが、それを聞きながら勉強をしていました。
Contents 03
京都大学に進学し、工学部石油化学科で学びました。当時は将来の進路として、化学会社や繊維会社に興味を持っていたのですが、3回生の時、第一次オイルショックが起こりました。そもそも石油そのものが有機系のおおもとの原料。オイルショックによって、石油がこれだけ社会に影響を与えるのだと実感したこともあり、「石油を扱う日本企業で、自分が生まれ育った倉敷にも縁がある企業」に就職をしたいと考えるようになりました。オイルショックが私の人生に大きな影響を与え、その後の進路を決めるきっかけになりましたね。
そのような中で、ご縁があって、日本鉱業に入社することになりました。この会社は非鉄、特に銅では国内では最大手でした。石油関係の事業についても、水島コンビナートの中に大きな製油所を持っていました。ですから先ほどの、就職したいと思う企業の条件に合っていたんです。これが私と石油企業との付き合いの始まりになりました。
Contents 04
「日本鉱業」に入社しましたが、その後合併などにより会社名は変化。名前はいろいろと変わりましたが、石油会社の技術系で40年やってきたというのが私の社会人人生だと思っています(略歴参照)。
1977年に入社し水島製油所の配属でした。2年間は装置の運転。交代勤務で24時間365日、製油所を動かしていました。当時は会社の方針として「現場に強いエンジニアを育てる」ということが掲げられた時。その一期生として、交替勤務の「実習」ではなくオペレーターとして鍛えられました。今振り返ると、現場の作業をしっかり学ばせていただいたことは、大変有意義なことだったと思います。
その後、マサチューセッツ工科大学に2年間留学する機会をいただき、帰ってきてからは本社、そして1990年に愛知県の知多製油所へ。ここでは自社開発の「商業化プラントの設計・建設・運転」のプロジェクトマネージャー、製造課長として勤務。製造課長としては主力装置の運転を担当し、扱っている製品やマーケットにもめぐまれ、MAX生産量を次々と塗り替えて、歴史的な黒字をたたき出すことができました。2008年には水島製油所長として2度目の水島勤務となり、その後は本社で製造技術本部長などを歴任してまいりました。
交替勤務を終え、エンジニアになったときに、その後仕事をしていくうえでの考え方に変化を生む出来事がありました。ジェムコ日本経営さんから受けたコンサルティング「SAVEプログラム」です。